私の彼女が住むマンションには、ひとりの男がいる。 彼は、マンションの周囲??半径5メートル以内??にしか存在しない。それ以上は、決して踏み出さない。まるで見えない結界に守られているかのように。
 
朝、煙草の煙とともに現れ、昼には空を見上げ、夕方には足の爪を切る。すぐ近くには公園もある。ベンチもある。なのに彼は、そこへは行かない。彼の世界は、マンションの縁に沿って静かに回る。
 
目が合っても、言葉はない。 笑顔もない。ただ、こちらを見ている。見ているが、語らない。語らないが、問いかけてくる。
 
私は彼を、敬意とユーモアを込めてこう呼ぶ。
「レレレのおじさん～沈黙バージョン」
元祖が「お出かけですか？」と声をかけるなら、沈黙バージョンは「なぜここにいるのか？」と沈黙で問いかける。
彼は掃除をしない。
だが、空気を整える。
彼は語らない。
だが、空間を語る。
 
住民たちは噂する。
「家に居場所ないんちゃう？」
「いや、あれが居場所なんやろ」
「もしかして、マンションの守り神？」
 
ある日、子どもが言った。
「おじさん、マンションの外に出たら消えるんちゃう？」
 
誰も否定できなかった。
 
彼は今日もいる。
煙草と沈黙と爪切りとともに。
半径5メートルの世界で、完全に存在している。
 
彼は語らぬ哲学者であり、動かぬ詩人である。
その沈黙は、私たちに問いかける。
 
「あなたは、どこに存在しているのか？」
「あなたは、何を語らずにいるのか？」
 
そして私は、彼のことをこう呼ぶ。
「レレレのおじさん～沈黙バージョン」
掃除はしないが、空気を整える。
言葉はないが、空気を語る。
彼がいるだけで、マンションは少しだけ不思議で、少しだけ面白い。